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 2009/08/26 Person of the Month

8月度パーソン NBC初代理事長 財団法人日本総合研究所理事長・多摩大学名誉学長 野田 一夫

 
野田 一夫氏

NBC初代理事長 財団法人日本総合研究所理事長・多摩大学名誉学長

野田 一夫氏

 
プロフィール
1952年東京大学社会学科卒業(産業社会学)。52〜55年同大学大学院特別研究生(企業経営論)。55年立教大学に赴任、助教授を経て70年教授(〜89年)。この間60〜62 年マサチューセッツ工科大学、また75年 ハーヴァード大学フェローとして、企業経営の国際比較研究に従事。他方、70年(財)日本総合研究所設立に伴い初代所長(81年以降理事長)、85年(社)ニュービジネス協議会設立に伴い初代理事長(〜86年)など兼任。89年多摩大学設立に伴い初代学長(〜95年)、97年(県立)宮城大学設立に伴い初代学長(〜01年)。
 

1.履歴書は、少なくとも私の人生の実相を反映はしていない

 上記履歴書の通り、私の人生は"大学人"として極めて順調に見える。ところで私は、学生時代にすでに大学教授にも大学という組織にも失望していたから、まさか自分が将来大学教授になろうなど想像したことすらなかった。ただどういうわけか、その私を妙に評価した教授がおられ、卒業とともに私は、相当額の給付金の付きの特別研究生として母校に残された。しかし私は、やはり物理的にも社会的にも暗い"研究室"にはなじめず、3年後は勝手に立教大学に転職し、しかも更に3年後には、思いもかけずMITからポストドクトラル・フェローとして招聘されて渡米、2年間「企業経営の国際比較」の研究に従事した。

 
 帰国して早々私は、立教大学助教授の身で、当時日本には全く前例のなかった「観光学科」新設の責任者となり、設置後は初代学科長までつとめた。そのうち、いろいろと使い勝手が悪くまた制約も多い研究室がうとましくなった私は、赤坂に個人事務所を開設し、授業以外はそこを拠点にして学外活動に力を入れた。大学教授の分際で大通りに面した都心のビルの中にオフィスを構えて秘書も複数いるとなると今日でもほとんど類例がないが、何しろ40年以上も昔のことだから、学界という狭い世界で異端視されたのは当然だった。
 

 家賃+秘書の人件費+その他経費となると相当な額だったが、マスコミでは若手経営学者として、また産業界では当時は稀な実学派大学教授として思う存分活躍したから、原稿料+講演・出演料など+コンサル料で、出費は賄えた。はじめ私は金持ちの息子とでも思われていたらしいが、航空機の技術者だった父親が終戦以来失業の身だと知った一部週刊誌には、大学教授らしからぬことでもしているかのごとき記事を書かれたりもした。しかし、別に恥ずべきことはないのでそれをつづけているうち、やがて誰も何も言わなくなった。

 
 

 

2.航空技術者として父親を超えるのが少年時代からの夢だったが、・・・

 さて、その父親こそ、私の人生を語るのに絶対に欠かせない存在だ。私の父は大正初期にドイツに留学して日本人として初めて航空力学を本格的に学び、帰国してからは三菱重工の技術者として軍用機の開発と国産化を一貫して推し進めた。今なら"野球少年"はイチローや松井を憧れるように、私たちが子供の頃は"航空少年"にとって堀越二郎("零戦"の設計主任)や糸川英夫("隼"の設計主任)は英雄だった。その堀越さんや糸川さんが兄事する父親は私の憧れで、「父を超える航空技術者になろう」ということが、自然に小学生以来の私の夢となった。だがその夢は、旧制高校生の時代に、敗戦で果かなく消える。

  
 「日本における航空機の製造並びに保有は永久に禁止する」という占領方針で、父は突然失業し、私が子供の頃から一途に目指していた工学部航空学科は廃止の憂き目に会ったのだ。この頃のことを一生忘れない。生涯を賭けた仕事を失った父は愚痴一つ口にせず、あたかも日曜日に家にいてくつろいでいるように毎日悠々と過ごし、やがて「やっと暇ができたので、科学技術の歴史を調べたい・・・」と毎日図書館に通いはじめた(20年後、その成果は上下二巻の『科学技術史』として丸善から出版された)のに対し、私は自分の前途を決めかねて、何ヶ月も悶々と過ごしていた。結局は、「過去に囚われていたら、道は拓けない。全く未知の世界へ飛び込んで未来を模索するのも一つの方法・・・」という父の助言で、私は意を決し、1年遅れで理科から文科へ転籍した。それこそ、180度の人生転換だった。

 
 文科に転じるや、社会科学に対するコンプレックスがあったため、私は有名な学説を次々に読み漁っては誰彼となく議論をふっかけた結果、友人間で「哲野学三」と称せられるまでになった。ただし私には、どの社会理論も"科学"と呼ぶに値するほどの実証性に立脚しているとは思えなかった上に、知的関心も満たされなかった。その中にあって例外的に惹きつけられたのは、(近代資本主義の成立をプロテスタンティズムに基づく禁欲的職業倫理と深く関係づけて解明した)マックス・ヴェーバーだった。大学進学に当たって迷わず社会学科を選んだのはそのためだったが、入学してみると、少なくとも当時の東大社会学科は貧相な学風が支配しており、失望した私はやがて、工学部出身の主任教授がおられた経営学の門を叩くことになる。しかし当時の経営学の学風も、私の関心だった"生きて躍動している"企業の現実とはおよそ無縁な抽象論ばかりで、再び私は失望する。要するに、私は専攻すべき領域を見つけられないままに卒業し、大学教授の道を歩むことになった。

 
 

「3.大学との本源的相性の悪さが、僕の人生をかたちづくった」

「4.おわりに─情熱を燃やせる目的を持って生きる喜びに、年齢は関係ない」 へ続く・・・

 

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